昨日の夜、僕の会社の近所の人がえらい勢いで怒鳴り込んできて、すごい怒られた。僕のせいではないのだが、知らない人の怒りを受けてかなりへこみました。
さて、気分転換。
三崎亜紀氏の作品を初めて読んだのは『鼓笛隊の襲来』だ。
たしかブックオフで100円で売っていたはずで、そのタイトルと装丁に筒井康隆的なテイストを感じた僕はぱらぱらとめくってその中身をたしかめ、その予感が当たっていることを確信して購入した。確かな筆力の上に現実にはありえない出来事をリアルに語るその筆致に感心したものだ。その後、やはり古本で『となり町戦争』を購入してこの作家が世間的にかなりの高評価を得ていることを知ったのだった。今時文学に無知な僕です。
これ書いたのもう二年前か・・・
僕はいわゆる文豪たち、つまりは明治~大正~昭和30年代までの作家はかなり読んだのだけれど、ほんと最近の流行や文学の潮流には疎いのだ。
流行作品や芥川賞をはじめとするそのほかの文学賞作品に興味を持つわけでもなく、むしろブックオフの100円本で自分の感性にあった作品を掘り起こすのが好きなのだ。そうしてそうやって見つけた本はほぼハズレはない。
今回購入したこちらの『コロヨシ!』も『失われた町』も三崎亜紀というブランドを知っていたので迷わなかったのだ。
この表紙のイメージと中身は違う
『コロヨシ!』は紹介文から想像するに「掃除」という架空のスポーツを高校生たちが一生懸命に打ち込み、読み手はカタルシスを得るのだろうなと思っていたら全然違ったし。表紙の様子から主人公が女の子かと思ったら「樹」という名の男子生徒だったし。
そもそもがファンタジーというかSF的なノリをもった不思議な作品だった。この独自の世界観を受け入れられるかどうかで作品の印象も変わるだろう。舞台も「日本」という確固とした国ではなく「この国」とぼかされ、その歴史についても微妙に本来の日本の歴史とはずらされたものなのだ。そして中国や朝鮮半島・台湾などを思わせる「大陸」「居留地」といった独自の土地の設定が抽象性に拍車をかける。
そういう世界の中で「掃除」はマイナーなスポーツではあるが一方では高度な技術を必要とする歴史のある競技として登場する。何故か「掃除」は高校3年間しか許されない競技となっている。しかし実は主人公の樹は幼少のころから祖父に掃除をレクチャーされその実力は折り紙つきだったのだが、祖父の失踪をきっかけに彼の家では掃除はタブーとされていた。しかし彼は掃除に対しての自らのかかわりを否定できず家族には内緒で掃除部に所属し、そのエースとして活躍している。
掃除のルールは個人戦・団体戦など細かに設定され、箒も「長物」という名で呼ばれる。そうして「塵芥」とよばれる粒子を巧みに操りそれを腰につけた袋に収納していくというのが基本的な競技の流れだ。しかし作品内では掃除は様々な流派があり、中でも「居留地」の掃除は別の潮流として重要な役割を果たす。
まああまり細かく説明するよりは読んだ方がいいのが本なのだけれど、そうそう、読んでいてあれっと思ったのは作者独自の作り上げた文化がその独特の語感によって説明されるシーンだ。当たり前のように「ハンドルマスター」だの「強力誘因剤(ハイポジション)」といった言葉が洪水のようにあふれ、読者を翻弄する。僕は直ぐにこれは僕の大好きなウィリアム・ギヴスンが描くようなSFに近いんじゃないかと思った。余計な解説をせずに、そこにすでに確立した世界として強引に話が進んでいく手法はまさにSFだ。だからこれは高校生を主人公とした青春スポーツ小説である一面を持つ一方でSF的な世界観をもった不思議な作品なのだ。また三崎氏の小説にはつきものの、役所的・官僚的な不条理な機構やシステムもふんだんに登場する。目に見えない力が主人公たちを有無を言わせずに引っ張っていく展開はいかにも三崎イズム!
取ってつけたように時折登場する人知を超えた美しさを備えた主人公の幼馴染にライトノベル的なノリを感じるのは致し方ないか。しかしそれとは別に居留地出身者としての運命を背負った後輩の女子生徒、高橋偲との淡い交流などがそこに織り交ぜられる。結局幼馴染とか親友である大介との決着が見られないまま話は終わり、読者にその後は委ねられるが、この小説はこういう終わり方がふさわしいなと思った次第ですよ。
この勢いのままもう一冊の『失われた町』も読んだわけ。
「失われた町」といえば昔『盗まれた町』を原作とした『SF・ボディスナッチャー』という作品があってそれは二度も映画化されている。
高校生から大学生くらいにかけて僕はその映画を見たのだが、とにかく第一作が怖くて慄然としたものだ。
怖い植物が襲ってくる!マゾーンか!
いわゆる侵略モノなんだけれど、ウェルズの『宇宙戦争』とか最近でいえば『バトルシップ』とか『スカイライン』みたいな宇宙人がゴリゴリとパワーで押してくる侵略ではなく、日常からじわじわと迫ってくるタイプのやつだ。SFでもこの手のストーリーは別にこれがオリジナルというわけではなくて、色々な作家、例えばディックなんかもいつの間にか周りの人間がすり替わっているという短編を書いている。『人形使い』もその系統かな。
映画「SF・ボディスナッチャー」が怖かったのは植物的なエイリアンが人の寝ている間にその人間を繭のような膜に取り込み、まるきりその人物に成りすますというところだった。見た目は同じなのになぜか別人。主人公たちが偶然その繭に取り込まれている最中の血管むき出しの人間を発見するシーンがあって、それが気持ち悪かったっけ。そしてその後町を脱出しようと主人公たちが逃げ回るのだが、そこで人面犬が登場!これはいつも犬と一緒にいた主人公の友人が取り込まれた結果そうなってしまったのだが、もはやギャグでしょ。一時期どこかのメディアでよく取り上げられていた。実際は犬に人のマスクをかぶせただけだが、犬もいい迷惑だよね。
で、確かエイリアン化した人間は普通の人間を見つけると突如大口を開けて「こおおおおおおおお!」と叫びだすんですよ!そうして追っかけてくる怖さ。ドナルド・サザーランドがヒロインと一緒に逃げ回り、最後ははぐれてしまうのだが、ヒロインは何とか逃れることに成功する。そうしてドナルドを見つけることに成功するのだけれどなんとドナルドが彼女を見た瞬間「こおおおおおおおお!」と叫ぶ絶望感たっぷりのラストは今も鮮明に覚えている。
この顔!こええ!
三崎氏の作品関係なくなってしまった。